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ひな菊の人生

 

 

久しぶりに、「ひな菊の人生」を読んだ。

 

吉本ばななさんの小説と、

奈良美智さんの絵画集、2冊組みになっている本。

ベロアのカバーで、黄色と赤の本が、青い箱に入っている。

 

この本を手にしたのは中学生の時で、

その少し前に、サンフランシスコに2週間滞在していた。

ホームステイした家の片隅に、無造作に貼られていたのが、奈良さんの絵だった。

 

日本に帰って来て、父と地元のTSUTAYAに行った時、

その部屋にあった絵のついた本を見つけた。

「アルゼンチンバババ」というタイトルの、ギラギラした装幀。

これも、奈良さんとばななさんが共作した本で、

気に入ったので、次に「ひな菊の人生」も買った。

 

「ひな菊の人生」は、ダリアとひな菊という女の子の話。

ひな菊が夜にリコーダーを吹くと、いつもダリアがやってくる。

葉の音や、風の匂いを感じるようなこの作品を、中学生の私は大好きになった。

 

昨日、数年ぶりに、ふと読み返し、最後の文章を読んだ。

 

 

ーーー

私という箱には、私が想像できる全部のものごとがつまっている。

誰に見せることもなく、誰に話さなくても、私が死んでも、その箱があったことだけは残るだろう。

宇宙の中にぽっかりと、その箱は浮かんでいて、ふたには「ひな菊の人生」と書いてあるだろう。

ーーー

 

 

私が区区を作ったときの気持ちそのままの言葉だった。

とてもびっくりした。

「ひな菊の人生」を読んでいたのは、中学生のときだから、すっかり忘れていたのに、

確かに私の作品の中に、初めて読んだときの感情が存在していたような気がした。

 

同時に、この感情は、誰にもわからないものだろうとも思った。

自分と全く同じ気持ちを、自分以外の人と共有することは出来ないと、

心から腑に落ちたことを、実感した。

胸の奥で納得した気がした。

 

あらゆる手段で確かめ合おうとする。

確認しようとする。

無理に共有しようとしていた、そんな自分を感じた。

 

 

 

大学生の頃、奈良さんの作品のあるカフェ、AtoZ Cafeでアルバイトした時期があった。

あんまり長くは続かなかったけど、昨年、長野のフェスに出演した時、

その頃の店長が「あおいちゃんだよね?」と声をかけてくれた。

お客さんとして観ていたら、急に私が出て来てびっくりしたらしい。私もすごくびっくりした。

再会から、今も、歌手活動を応援してくれている。

 

最近借りたアトリエには小屋がある。

私の大好きな場所。

「AtoZにある小屋を見たのをきっかけに、小屋を作ろうと思った」ということを、この前教えてもらった。

 

思い返せば、作品によって、知らぬ間に引き寄せられている感覚があった。

日常の色んなところに、似たようなことがある。

その偶然は、無理に作りあげたものより、よっぽど信用できるものだと知った。 

 

 

おととい、昔から行きつけの地元のイタリア料理屋さんに行ったとき、

酔っぱらった客に乗せられ、母の伴奏で歌を歌った。いつものこと。

聞いた後、いろんな人が、言いたいことを勝手に言ってくる。

酔っぱらいだから尚更だけど。

幼い頃から人前で歌っていた私にとって、評価されることは当たり前だった。

 

でもその日、「私はこんな世界にいたんだ」と思うと同時に、

何を言われても気にしなくなった自分に対してうれしかったし、

楽しそうにピアノを弾く母を見て、もっとうれしかった。

 

きっと、何も言わずに、側にいてくれる人がいた。

手を差し伸べてくれた人がいた。

そんな一日が、私にはたくさんあった、と思うと、涙が出た。

オレンジ色の気持ちになった。

名誉もお金もなかったとしても、確かに私の中だけに存在するもの。

 

誰にも私のことはわからないのだから、

変わり続けていくのだから、

「わかった」という事実よりも、

「わかろうとする」ことの方がよっぽど信用できるのかもしれない。

「成功」よりも、「成功しようとした」私に手を差し伸べてくれた人がいた。

区区を思い返すと、色んな人の顔が浮かんだ。

 

一体、これからどんな人生になるのか、

ものすごくどうでもよくなって、ものすごく楽しみになった。

 

「あおいの人生」と書かれた箱が完成するとき、その箱の中に、

きっと、CDアルバムが添えられて、それをつくるまでのストーリーのキャプションがつくだろう。

もしかしたら、誰かの箱の中にも入るかもしれない。

 

そんなCDを作りたいと思った。

そんな人生だといいと思った。